第二部 信仰と理性論 星加弘文

Chapter 3   キリスト教哲学とは何か (10)

(注)

■Section 1

[1] Abraham Kuyper, Lectures on Calvinism, Michigan: Eerdmans Publishing Company,1981, p.131

[2] ibid., p.133

[3] 春名純人『哲学と神学』「キリスト者と非キリスト者の学的思惟における対立の原理」法律文化社 1994年 pp.290-291(カッコは星加補足)

[4] P・S・ヘスラム『近代主義とキリスト教―アブラハム・カイパーの思想―』新教出版 2002年 pp.16-17(要約)

[5] Cornelius Van Til, The Defense of the Faith, New Jersey: Presbyterian and Reformed Publishing Co., 1967, p.288

[6] ibid., pp.289-290(要約)

[7] 佐々木正文〝キリスト者の世界観の確立9「学問と信仰」〟『週間キリスト者 第788号』 キリスト者学生会 1981年 p.7

[8] 春名純人『哲学と神学』「キリスト者と非キリスト者の学的思惟における対立の原理」 法律文化社 1994年 pp.298-299

[9] トマス・アクィナス『神学大全1』「Ⅰ部第12問題第十三項」〝自然的本性的理性によって得られる以上の高次な神の認識が、恩寵によって得られうるか〟創文社 1995年 p.254 参照

[10] 注[8] 引用文参照。他に同書 pp.287-288, 315

[11] N.R.ハンソン『知覚と発見(上)』紀伊國屋書店 2000年 p.152-154

[12] 前掲書 p.154 参照

[13] 春名純人『哲学と神学』「キリスト者と非キリスト者の学的思惟における対立の原理」 法律文化社 1994年 p.292

[14] 広川 洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫 2001年 p.244

[15] N.R.ハンソン『知覚と発見(上)』紀伊國屋書店 2000年 p.165, 167

[16] 注[8] 引用文参照

[17] 稲垣久和『知と信の構造』ヨルダン社 1993年 p.316

[18] 信仰の四要素(教義的解釈、史実性、奇跡の生起可能性、天上的教理の真理性)がもたらす信仰的諸概念、例えば、神、聖霊、超越、復活、罪、赦し、イエス・キリストといった、信仰が伝える概念を、理性はそれぞれの定義としては理解することができる。神は全能者である、とか、キリスト教における復活とはイエス・キリストのよみがえりのことであり、イエス・キリストは一世紀パレスチナのガリラヤ、ユダヤ地方で活動したといった理解である。
一方で、理性は、聖書が伝える神が本当に実在するのかや、イエスの復活は本当に起きたことなのか、イエスが活動したという福音書の記事は事実なのかという、信仰の事柄の真偽については確かな判断を持つことができない。
「キリスト教 信仰と理性論」は、信仰が伝える概念を、本当のこととしてどの程度理解できるのかを探求する試み。言いかえれば、信仰は超越領域のための信じる機能であり、理性は内在領域のための理解する機能であるという信仰と理性に対する一対一の関係性による割り切り方を最初に設定せずに、信仰を理解できるところまで理解しようとする試み。そのため、当論考では信仰の4要素に対する理性の5区分(理論前件に超越概念を使用しない実在論的思惟と古典的演繹、理論前件に超越概念を使用する実在論的思惟と古典的演繹および構成主義)を使用し、信仰と理性を多対多の関係に置いて信仰の諸概念に対する理性的理解を求めるという方法を採用している。
信仰を完全には理解できないとしても、それを肯定できるための何らかの必然性や根拠の発見、個々人における信仰成立の仕組み、キリスト教信仰の構造についての理解を得ることを目的とし、その結果として、一般倫理および他宗教との関連を含めたキリスト教信仰の正しいあり方を提示する。(信仰の4要素、理性の5区分については第二部、Chapter 2 - Section 2 および Section3 を参照)

[19] 使徒行伝17章のパウロのアレオパゴスでの宣教に「知られない神に』と刻まれた祭壇」への言及がある。「知られない神」というのが特定の神像や神観を指示するのではないとき、その宗教は超越領域について「不明」と見ていると理解される。この場合、その宗教は実在論を採用するに至っていない構成主義的立場にあるといえるので、パウロがそれを契機に神論を展開したように、その「知られない神」の宗教はキリスト教と連続することが可能である。キリスト教が他のどんな宗教ともまったくつながりがないというのは極端な理解であり、旧約聖書にはキリストの位がそれに等しいとされる「メルキゼデク」の存在があり、新約聖書には「東方の博士たち」がいて、これらはいずれも何らかの宗教に携わる人々と理解される。

■Section 2

[1] H.Dooyeweerd, In the Twilight of Western Thought: Studies in the Pretended Autonomy of Philosophical Thought (Collected Works of Herman Dooyeweerd Series B, Vol 4) The Edwin Mellen Press (1999/9), (邦訳)ヘルマン・ドーイウェールト『西洋思想のたそがれキリスト教哲学の根本問題』法律文化社 1970年 p.58「これら二つの講義〔一、二章〕においてわたしがその要綱を説明した哲学的思惟の新批判において…」

[2] 前掲書(邦訳)p.1

[3] 前掲書 p.4

[4] 前掲書 p.5, 12

[5] 前掲書 p.5, 21-24

[6] 前掲書 p.3

[7] 前掲書 p.15「主=客関係」

[8] 前掲書(原著)p.8(邦訳)p.7「思惟と経験の論理的側面を非論理的諸様態に対立させる」という記述が、理論的態度の説明としてあいまいで理解しにくい理論的態度で客観の非論理的諸様態と対立する論理側面が、主観のそれと、客観の一側面としてのそれの両者であるという事態が理解しにくいが、原著でもそのように述べられており春名訳をそのまま採用。

[9] 前掲書(邦訳)p.11

[10] 前掲書 pp.11-18

[11] 前掲書 p.19

[12] 前掲書 pp.19-20

[13] 前掲書 p.21

[14] 前掲書 p.22

[15] 前掲書 p.25

[16] 前掲書 p.25

[17] 前掲書 p.28

[18] 前掲書 p.32

[19] 前掲書 p.31

[20] 前掲書 p.35

[21] 前掲書 p.52

[22] 前掲書 p.54

[23] 前掲書 p.56

[24] 前掲書 p.58

[25] 前掲書 p.59

[26] 前掲書(原著)p.39(邦訳)p.56 春名訳では「この構造的事態についてのわたしの説明は、経験的諸様態が内的に連関しつつも相互に還元できないものであることを意味するわたしの超越論的根本理念によって、初めから支配されていたことは確かである。」となっているが意味がとりにくい。「経験的諸様態が内的に連関しつつも相互に還元できないものである」とは「宇宙、自我、神」という三つとしての「超越論的根本理念」ではなく、そのうちの「宇宙」すなわち「構造的所与」についてのみ言われているはずであるので、ここではその点を明瞭にした私訳を採用。

[27] 前掲書(邦訳)p.56

[28] 注[6] 引用箇所参照

[29]『カント事典』〝超越論的〟参照 弘文堂 1997年「有、一、真、善」

[30]「実際、感官の対象を単なる現象とみなすならば、我々はこのことによって同時に、現象の根底に物自体の存することを認めることになる。」I.カント『プロレゴメナ』「第三二節」岩波文庫 1977年 p.134、他に『道徳形而上学原論』岩波文庫 1978年 p.169、『純粋理性批判』B566 に同様の記述

[31] 春名純人〝改革派弁証論序説〟『現代とキリスト教小論叢書V』pp.3-4 日本基督改革派教会西部中全文書委員会 1975年

[32] I.カント『純粋理性批判 中』B438, 545-551 岩波文庫 1977年 pp.192-197

[33] I.カント『純粋理性批判 上』B70 岩波文庫 1978年 p.119

[34] ジョン・ヒック『宗教の哲学』勁草書房 1997年 p.220

[35] 藤巻充「今日の聖書論とわれわれの立場」『論集聖書』東京聖書学院 1983年 p.16「み言葉信仰とは、『Aでもあり、Bでもあり、Cでもあり…。』という一元的把握を指している。」

[36] 拙論『キリスト教命題学』に、これらの概念間に導出関係が認められないことを述べている。

[37] 注[2] 引用箇所参照

[38] H.ドーイウェールト 前掲書 p.49

[39] 前掲書 p.50

[40] 前掲書 p.13

[41] 前掲書 p.144

[42] 前掲書 p.134

[43] F.A.シェーファー『理性からの逃走』いのちのことば社 1984年 p.52, 104

[44] H.ドーイウェールト 前掲書 p.118

[45] 前掲書 p.144

[46] 前掲書 pp.131-133

[47] 前掲書 p.132

[48] H.ツァールント『史的イエスの探求』新教出版社 1971年 p.176

[49]「信仰論」Chapter 3 - Argument